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くらしにエッセイ


これくらいの お弁当箱に


誰かにとっては毎日作って食べるもの、日常。
また、誰かにとっては特別な日に食べられて、楽しみなもの。
それがお弁当。

給食を食べていた幼稚園生から中学生までのお弁当持参の日は、イベントごとが多かった。運動会や遠足、ちょっといつもとは違う時間割のとき。野外で食べたり、教室で食べたり、場所は関係なくお弁当の時間はわくわくした。童謡にお弁当の歌があるのも頷ける。
給食はいつもクラス内で分かれている班で食べなくてはいけなかったけれど、お弁当は誰とでも自由にお昼の時間を過ごせたという記憶がある。いつも休み時間に過ごすのとはまた違って、とても嬉しかった。大人である先生も、お弁当は特別な日ととらえていたと思うと、なんだか微笑ましい。
友達のお弁当を覗くのも面白かった。あるとき、ロールパンにハムやチーズ、野菜を挟んだサンドウィッチを持ってきた友達がいた。お母さんが寝坊したという理由だったようだが、いつものり弁のモノクロ弁当が定番だった私には、それがとてもおしゃれに見えて羨ましかったのを覚えている。

私のお弁当生活は、高校生から社会人となった今現在まで続いている。8年ほど母が作っているお弁当をお昼に食べることが日常化されている。
お弁当のおかずは、前日の夕飯の残りものだったり、買ったお惣菜だったりするが、特に不満もなかった。だけど、時々、非日常を楽しみたくてパンなどを買うこともある。いつもお弁当を作ってもらっている立場なのに、「明日はパンを買うね」と言うのは少し申し訳なさを感じていた。

2週間前、私は生まれて初めて自分のお弁当を作った。
姉に子どもが生まれ、母が姉夫婦の家で寝泊りをしながら家事を手伝うことになり、自分のことは自分でやらなければならなくなった。
夕飯はかろうじて作りに来てくれるものの、お弁当は自分でどうにかしなければならなかった。
今まで実家で暮らしてきた私は、家事など全くしてこなかったので、料理のレパートリーなど無い。だけど、1ヶ月近くもお昼ごはんを買って済ますのは味気ない。それに母に30年近くお弁当を作ってもらっていた父がいる。娘がいるのにお弁当も作ってもらえないなんて、ちょっと自分でもどうかと思った。
そうして、お弁当作りが始まった。
図書館で借りたお弁当作りの本に、作れそうなおかずをポストイットする。炒めるだけ、和えるだけ、焼くだけ…。調味料も自分が使いこなせそうなものだけ。
最初、母は料理を全くしてこなかった私を信用しておらず、父の分のお弁当は作らなくてもいいと言った。私も自信がなくて、自分の分だけを作ってみた。鮭を味噌で和えて焼いたり、トースターで小さなグラタン風を作ったり、彩りを考えてプチトマトも添えた。
「今日は自分で作ったお弁当がある」と思うと、お昼ご飯が待ち遠しく、すこしどきどきした。
初めて作ったお弁当は、おかずの味が少し濃すぎたけれど、それでも上出来だったと思う。母にお弁当の写真を送ったら、こんなに作れるものなのかと心底驚いていた。自信がついたので父の分と2人分を毎日作っている。
「15分で出来る」と本に書いてあるのにどう頑張っても40分は掛かるから、そのおかげでいつも電車に駆け込み乗車をして、朝からくたびれる。早起きするのだって辛い。
だけど、お弁当箱に彩りよく詰められたときの嬉しさ、お昼の時間にお弁当箱を開けるときの少しどきどきする気持ち。そしてなにより、自分で頑張って作ったものだから大事に食べて、明日も頑張って作ろうと思える。
私のお弁当はいつもの毎日を非日常にしている。
それはまるで童謡を歌っていたときのように。


The Essayist's Profile
米澤あす香 1988年生まれ。ARTS&CRAFT静岡スタッフ。
書くことが自分の表現になることを目指しています。
誰かにとって丁度いい言葉ではなく、見たこと、聞いたこと、感じたことを咀嚼して
自分の言葉で伝えていきます。

※エッセイのご意見・ご感想は shizuoka@tezukuriichi.com までお寄せ下さい。


これまでのエッセイ

第1回 わたしの朝ごはん
第2回 今日もお茶をいれる
第3回 はやく、あいたいな
第4回 わが家のおでん
第5回 これくらいの お弁当箱に
第6回 暮らしのこと